宇野寧湖さん『The Beautiful People 』を読んで ― 2018年3月 J.GARDEN44 ―

 科学と宗教と思想は、社会構造の中で無力な個人を救済することはできるのだろうか。結核治療のサナトリウムに勤務する医師、診療所で礼拝を執り行う神父、そしてマルクス主義の末期の結核患者が、苦悶の中で人の死の意味を問う。そこで築かれる関係性には憧憬と慈しみがあり、友情を超えた絆は仄かに官能的な趣を想起させる。

 清正は病床から社会への復帰を志していたが、病状が悪化する中、マルクス主義とその啓蒙活動にかけた自らの青春と向き合うことになる。死を目前に忌み嫌っていたキリスト教へ転向することを決意し、社会構造を改革する夢を果たせなかった無力な自分を受け入れる。昭和の初めという時代設定のためだと考えられるが、清正のマルクス主義は、貧困層が現状を打破するために階級意識を持って行動を起こすべきだという経済的実践論だ。そこには、社会を構成する主体に刷り込まれたイデオロギーという概念が欠落している。つまり、個人の中には、社会倫理的意味合いや社会への政治的参与とは異なる無意識的観念がすでに刻み込まれていて、それは個人の存在条件となっているという点である。純粋な彼は無邪気にも社会構造や人々の認識を根底から覆すことができると信じて疑わず、そこに清正の絶望や転向の契機があったように思われる。そういう意味で、物語の中では、マルクス主義は戦えなくなった者へある種冷酷な側面があるように描かれている。

 それに対し、清正の主治医である狭間は、科学的な認識が内在させるイデオロギー的な要素と自分の職責に、折り合いをつけることができない。目の前にいる末期患者に対し自分が無力であることに、倫理的な葛藤を抱えているのだが、それよりも根深く、科学的世界との携わり方の本質に苦悩しているように思われる。医師として唯物論的な発言をする裏で、実際には誰よりも人の高潔な魂を信じたい人物像として登場する。

 狭間は理想主義の清正に対して現実の死を突き付けたい苛立ちに駆られる。その反面、死期が近付くと、生き延びてほしいと切実に願い、その自己矛盾の感情に苛まれる。清正はその優しすぎる医師が傷つくのを嫌い、彼を救おうとする。

 そのような二人の関係を、桐神父は鋭い観察眼をもって受容する。その聖職者は一見俗物的な人物像とも受け取られるが、実のところ、自分の属するキリスト教界の権力関係へ極めて自己批判的な視座を持つ切れ者である。飢えと病に侵されたコミュニティーが、机上の理想論とは懸け離れた現実であること。それは、凄惨な死の前では神の救済すら意味を持たぬこと。宗教では真の死の恐怖を払拭し切ることはできないこと。そして、自らの思考を支配されることを畏怖する人にとっては、神による救いが暴力的にもなり得ること。それらをすべて理解したうえで、恐怖の只中にいる人へ、神に縋るよう促す。

 それでも狭間は神による救済を拒む。その足掻きは自分を許してしまうことへの嫌悪のようで、読者に痛烈な響きをもたらす。科学も宗教も思想もそれぞれ、世界へ投げ掛ける眼差しの知でありながら、結局、どれも死にゆく小さな人の前では無力である。それでも、登場人物たちは、その知性の限界の縁に佇むことしかできない。キリスト復活の印として提示される白百合が、彼らの孤独の傍らにただ優しく寄り添うだけである。

 

 

宇野寧湖さん

『The Beautiful People 』

発行:2018年3月4日

印刷:プリントオン

新天使出版会

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